英語長文多読(大学入試・受験英語)

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東京外大 2016 大問3 日本語訳

 成績評価とは,生徒たちの進歩と達成に関して判断を下す作業である。 『思い込みを脱する』で論じているように,成績評価には2つの要素がある。つまり,記述と評価である。もし,ある人が1マイルを4分で走ることができる,あるいはフランス語が話せると言うなら,これらはある人ができることに関する中立的な記述である。もし,彼女が地区で最も優れた運動選手だとか,ネイティブのようにフランス語を話すと言うなら,これらは評価である。違いは,評価が個人の行うことを他の人たちと比較し,それを特定の基準に照らして順位付けする,ということである。

 

 評価にはいくつかの役割がある。第一は,診断的なもので,生徒たちの適性や,発達の程度を教師が理解する手助けをする。第二は,発達形成に関わるもので,生徒の勉強や活動に関する情報を集め,彼らの進歩を支援するものである。第三は,総括的なもので,学習計画の終わりに全体的なできばえを判断することに関わる。

 文字とテストの点数を使う評価システムの問題のひとつは,それが通常,記述が軽んじられ,比較に重点が置かれることだ。生徒たちは,それが何を意味するか本当にはわからないまま,成績をつけられることがあり,教師は理由が完全にははっきりしないまま,成績をつけることがある。2つ目の問題点は,たった一文字の語や数字では,それが要約しているはずの過程の複雑さを伝えることができないということである。そして,このような方法では,まったく適切に表せない成果もある。著名な教育者である エリオット=アイスナーがかつて言ったように,「大切なことがすべて測定できるわけではなく,測定できることがすべて大切なわけではない」のである。

 成績評価の価値を高める方法のひとつは,記述と比較という,これらの要素を分けることである。生徒の評価には,授業への参加,勉強の成績評 価用資料,書かれたレポート,その他の形の課題を含めた,多くの形態の根拠を参照できる。成績評価用資料は,その生徒自身や他の人たちから得た例題や反省的コメントと共に生徒が成した課題についての詳細な記述を 見込める。

 仲間集団の評価では,生徒たちは互いのできばえの判定と。判定の基準に寄与する。こうした取り組みは,創造的な作業を評価するのにとりわけ価値がある。

 中には,授業でさまざまな評価方法をずっと使ってきた教師もいる。試験による判定が盛んになったことで,それが以前よりも難しくなってしまったが,一部の教師は,自分の教室ではその流れに抵抗している。課題も あるが,良い点も非常に多いこともあるのだ。たとえば,ショー=バウアーは,カナダのアルバータで理科と言語運用科目を教えているが,教師を して6年目に入っており,自分の成績評価の中心となる形態としてテスト の点数を使うことを固守できないと判断した。

 「私は,テストの点を,学校での極上の麻薬だと思うようになりました。そして,私たちはみんな中毒になっているのです…。テストの点数はもともと,教師が使う道具だったんです。でも,今日では教師のほうが点数に使われる道具になっています」

 バウアーが気づいたことは,生徒の格付けに頼ることで,自分が教師としてはそれほど有能ではなくなり,生徒には悪影響を与えているということだった。彼は,授業から何を得たか尋ねられると,多くの生徒が「A評価を取りました」などと言って答えることを指摘する。学校は成績表に等級をつけるように要求したが,彼は自分の教室では等級付けをすべて廃止し,生徒に自らの成果を評価して,自分にふさわしい成績を提示するよう卜に求め,その後初めて成績通知表の成績をつけた。生徒が提示する成績は,バウアーの評価とたいていは同じものであり,生徒がより低い成績を提示する場合のほうが,高い成績を提示する場合よりはるかに多かった。等級付けをやめた結果は,生徒にかかるプレッシャーをなくし,採点するための答案用紙の説明書きよりも,課題や教室での学習の内容に集中できるようになったということだった。

 「現実の学習と同じくらい見事に複雑なことを減らそうとすると,明らかになることよりも隠してしまうことのほうが必ずはるかに多くなります。結局,等級付けが評価を間違ったものにしてしまうのは,評価とは表計算ではないからです。それは対話なんです。私は,日々非常に精力的に生徒たちの評価をしている教師ですが,何年も前に成績帳は捨ててしまいました。自分なりのやり方を見つけ,等級付けではなく学習を学校の最大の関心事にしたければ,学習や人間を数字におとしめる私たちの熱狂を捨てる必要があります」